「祭り囃子に魅せられて-1」豊島正己さん(1969年・D卒)


左・邦楽仲間のハンドルネームは豊吉です / 右・屋台を押して神田祭で御輿と町内巡行

豊嶋さんは工芸デザイン科を卒業後、デザイン研究所に勤め、その後幅広いデザインを手掛けるデザイン事務所、有限会社モノリスを立ち上げました。
デザイン事務所の経営の傍ら日本文化にも興味を持ち様々な邦楽器の演奏にも挑戦しています。今回はその中で「祭り囃子」のお話を寄稿していただきました。

 

祭の朝、祭り囃子の遠音が聞こえて来るとなにかワクワクしませんか。
今思うと二十代の若い頃はそんなに祭に興味は無かった様に思いますが、子供が出来て一緒に祭に行く様になってからは私の子供の頃の楽しかった祭を思い出し再び祭への興味が湧いてきました。
そんな折、ネットで知り合いになった三味線の仲間から神田囃子の練習に行って見ない?とお誘いを受けました。
一緒に連れて行って貰うと、神田須田町二丁目の神田柳森神社のお囃子連でした。

須田町と言うのは実は縁があって両親が戦前知り合いになったのがここ神田の須田町食堂でした。
父はそこの支配人で母はウエイトレスでした。二人は戦後再会して結婚する事になりました。
母の実家は戦前は神保町に有ったのですが、戦災で焼け出されお茶の水の聖橋の袂に引っ越していました。
そこは神田明神の直ぐ近くで私も小さい時はよく神田明神の境内や直ぐ近くの公園で遊んだものでした。
その頃の境内には神鹿もいた記憶が有ります。
ただ母の実家は一寸遠い湯島天神の氏子だったので、近くの神田明神の御輿は担げなかったのが私の不満でした。

私がかれこれ十年ほど前に参加させて貰ったこの柳森神社のお囃子は神田囃子保存会の系統で、先生が保存会からいらして指導をして頂いていました。
邦楽の他の分野と同じように、洋楽のようなきちんとした楽譜は無く、有ってもメモ書き程度のものでした。
基本的には口唱歌と言って、太鼓は「テンテレツク・スケテンテン」とか、笛は「チヒーリ・ヒャイトロ」とか訳の分からない謎のフレーズを唄として覚えなくてはならず、最初の三年ほどは大変苦労しました。
仕方ないので鼓を習っていたときの八割り符を参考に自分なりの楽譜を作ってなんとか覚えられるようになりましたが、怖い先輩方はそんな邪道は許さないので内緒でした。

<つづく>