校章の話-3 校章の復活と再度の消滅

「60年記念誌」の巻頭に載掲された校舎正面の写真

昭和3年に竣工した水道橋新校舎に掲げられた紋章の様な校章は王冠が問題になり王冠部分が切り取られ、昭和18年(1933)の「金属類回収令」で供出され校章は無くなり、土台だけが残った正面玄関となり戦後まで続きました。(ここまではおさらい)

・校章の復活

戦後改めて制作された校章は「装飾のない方が無難だろうと校章だけを木彫吉見先生、彫塑山本先生、漆坂田先生の合作で」(1)、現在と同様なデザインの飾りのない木製の校章が掲げられましたが正確な制作年は不明です。以降、永い間飾られていた校章も風雨にさらされ木製であったのでの腐朽が酷くなっておりました。この時の校章は、昭和38年(1963)から始まった校舎の増改築最初の年に管理棟改修工事の際に撤去され2回目の校章消滅となりました。その後14年間は土台だけが残る正面玄関でしたが、創立70周年になる機会に校章の復活の話が纏まりました。昭和52年(1977)夏頃から、この腐朽した木製校章を手入れし修正し木型原型とした青銅の鋳物製校章が同年11月1日に完成。創立70周年記念式典に披露され、直ちに玄関上に取付けられ校章が復活しました(2)。この時に、現在に残る校章の作図法が作成されたと考えられます。

校章が復活した校舎正面玄関

・そして再び校章が消えた

水道橋の旧校舎に昭和52年(1977)に復活した校章は、平成9年(1997)に竣工した現校舎の平成3年(1991)からの一期工事(1991〜)で玄関車寄せが取り壊される際に外されました。
校章は創立年が戦中に皇紀に変わったり、紋章的な校章が旧校舎に掲げられたり、「金属類回収令」で供出され木製で復活したりしながらも、今景彦校長が創案された基本的なデザインは変わらずに120年を迎えようとしています。平成9年(1997)に取り外された校章は、本校正面門を入った左側スロープに記念碑的に設置されており校外からの景観には映りません。制服も制帽もなくバッジも無くなった今は生徒が校章を身につける機会はほとんどないと思います。120年・2万4000名に迫る卒業生にとって、校章が過去の記念物にはならない事を願っております。

以上、この回で「校章の話」を終わります。

正門を入ったスロープの左側に設置された旧校舎に掲げられていた校章

・校章関連年譜

明治39年(1906)
東京府立工芸学校開設認可
今景彦校長アメリカ視察途上の船上で観た日の出と1907で校章イメージを考案
明治40年(1907)
4月1日 東京府立工芸学校開校 5月1日入学式(開校記念日)
※築地校舎に校章は掲げられていない
明治42年(1909)
学校案内に校章の写真掲載(資料として最古の校章写真)
大正12年(1923)
関東大震災で築地校舎焼失
昭和3年(1928)
水道橋新校舎に「王冠とアンザス風の模様をあしらった」ブロンズ製校章が掲げられる
昭和7年(1932)or 8年(1933)
創立が紀元2567に変更され、帽章の創立年が2567に変更される
昭和18年(1943)
校舎に掲げられた校章の王冠が削り取られる
その後「金属回収令」により校舎から外され供出される
※戦後木製の校章が掲げられるまで校章は掲げられていいない

戦後(制作年不明)
木製で漆塗装の校章が校舎に掲げられる
昭和38年(1963)
校舎の増改築の管理棟改修工事で木製校章が撤去される
※その後14年間校章は掲げられていない
昭和52年(1977)
11月、創立70周年記念事業として鋳物製の校章が製作され正面玄関に復活
平成3年(1991)
新校舎(現校舎)建築一期工事で校章が撤去される
平成9年(1997)
水道橋新校舎竣工、旧校舎に掲げられていた校章は正門を入ったスロープ左側に設置された



梶広幸 記(1969年・D卒)


(1)- 「工芸学校・夜間制度80年の歴史」P-95
(2)-「70周年記念誌」-P61校章のいわれ