校章の話-1 校章の創案

都立工芸高等学校は1907年に東京府立工芸学校として築地で開校され、現在まで震災や戦災をはじめ時代の影響を受けなが現在の姿に至っております。学校の歴史や事蹟については昭和32年発行の「工芸50年」を皮切りに「60年」「70年」「80年」「90年」「100年」「110年」の記念誌(学校発行)や年史(同窓会発行)がまとめられており、各年誌・史で必ず記されているのは今景彦初代校長が創案されたと言う「校章の話」です。その校章についても時代の影響を受けながらいく度か変化して来ました。本稿では何回かに分けて校章の変遷を辿ってみたいと思います。第一回はやはり校章の創案の話から‥‥‥‥。

・校章のデザインについては、盾の形状から創案当初から欧米からの「輸入に対する防波堤」という意味であるとの話が定説のようになっておりますが、創立50年記念刊行『工芸50年』(1957)の「懐旧座談会」では校章について以下の話が掲載されています。


校長 盾は何を意味するのでしょうか。
徳丸  私の聞いたのはずいぶんあとの話なんですが、輸入防遏がこの学校設立の最大の目的だつた。輸入に対する防波堤を作るというので使った・・・・・
菅沼 盾のような格好をしておりますが、あれは船の格好を表わしたのです。船に乗ってたまたま太陽が昇ってきた、これが実にきれいだ、校章に何かきめなければならぬ折から、これをもつて校章にしたいということで、太陽の昇る刹那、工の字、一九〇七年を刻んだ、こう先生はおっしゃっておりました。
都築 今さんがそうおっしやつたのですか
菅沼 ええ、そうです。


・文中の校長は1957年当時の学校長酒井永治さん、徳丸さんは旧精密機械科科長で金属細工科第三回卒。菅沼さんは明治45年の精密機械科第二回卒、都築さんは旧数学科担当職員。今さんとは創立時の今景彦校長で創立の明治40年から明治44年まで校長としておられました。当時の精密機械科は4年制ですので明治41年入学、明治44年卒業の菅沼さんが今校長から「直接聞いた」とのお話は正しいと理解してよいと思います。

・また、『創立60周年記念誌』(1967)P103にある「校章のいわれ」には以下の記載があります。


輪廓の盾形は俗にメリケン形といわれ、古代ギリシヤ、ローマ等世界各国の多種多様な盾のうちでも、最も簡明な形である。この形は明治、大正時代には、いろいろな工芸品に極めて多く用いられ、親しまれたもので、初代校長の今先生はアメリカでよくこの形を見せつけられ、強く印象づけられたのであろう。従って盾(輸入品を防ぐという意味)そのものとして用いられたということもあるが輪廓として単にこの形を利用したのである。当時としてはいわゆる舶来のモダンな形であり、生徒達の心意気を示すにもふさわしいものであった。(旧D科職員池本浩之さんが本校生徒会新聞「芸苑の泉」への寄稿)


・この一文と前記「工芸50年」の校章の話を合わせて考えると、今校長の創案は「船と日の出」の下に1907をレイアウトする際に当時モダンであった形状「メリケン形」にうまく収まったと考えられ、後に「輸入に対する防波堤」と言う意味が付加されたと考えられます。

・「INDUSTRIAL ART No24.創立二十五年記念号」(1933)の記事「創立二十五年記念式典」の中の近藤校長の「開校二十五年記念式式辭」に、本校設立の目的が「輸入防遏(ぼうあつ)を目的として設立された」とあり、この頃には校章のメリケン形の盾が「輸入防遏」(輸入に対する防波堤)の意味を持って広まっていたとも考えられます。


梶広幸 記(1969年・D卒)