校章の話-2 水道橋新校舎に校章が掲げられ、創立は紀元2567
築地校舎正面
1923年9月1日(土)新学期の始まりの日、午前中に母校の「夜間工芸併設実業補修学校木材工芸科」に二学期からの入学願書を提出した谷口俊朗さん(昭和2年F卒)の「大震災当日の工芸」と題した一文が「築地万年橋」(1982)に掲載されています。地震の後に、学校を見に行った際には「煉瓦造りの校舎は、あまり痛みはなく、市電の道を隔てた反対側の洋館、二階建ての二階だけが市電の道の真ん中へクレーンで吊り下げて下ろしたように飛び移っております。」とあり「午後7時半頃でしたが、まだ母校には火の手はなく〜」と続いており築地校舎は地震では倒壊せずに無事だったことがわかります(1)。その後の火災の延焼で築地校舎は焼け落ちでしまいましたが、築地校舎に校章は掲げられておりませんでした。
・新校舎に掲げられた校章
復興で、昭和3年に完成した水道橋新校舎には玄関正面に掲げる校章を作ることになりました。デザインは当時の木材科製図担当の月島先生で「校章に王冠とアンザス風の模様をあしらった」もので「木製の原型は山本先生が作ったブロンズ製」との事で(2)、その校章が写真左、右は昭和3年の新校舎竣工記念写真で玄関正面に校章が掲げられています。この「紋章のような校章」が印刷物などに使われた写真・資料などは確認されていないので、どのようにどこまで使われたかは不明です。
新校舎に掲げられた校章と、右-水道橋新校舎竣工記念写真
昭和11年の第7回陸上運動会。玄関正面に掲げられた校章が確認できる。
・創立年が紀元2567年に変わる
神武天皇が即位したとされる年を紀元とする皇紀は西暦より660年早いとされ明治5年に正式に定められ、以後西暦と皇紀(紀元)どちらも使われておりました。昭和3年(1928)の新校舎の正面に飾られた校章には「1907」の表記はありませんが、昭和6年(1931)発行の校友会誌「INDUTRIAL ART」(略称IA)には「No.22 1931」と西暦で記されています。昭和8年(1933)の「IA」No.24「創立二十五年記念号」では皇紀である「2593」と記されております。間の昭和7年(1932)発行の「IA No.23」は残っておりませんので、昭和7年(1932)か昭和8年(1933)に紀元「2567」に変更されたと思われます。当時は皇紀での表記が促進(強制?)されており「諸般の事情のために校章に創立を示す西暦1907は紀元2567に変わったが敗戦後1907に戻った。」(3)」とあります。「当時の学帽は海軍の帽子に習ったもので後ろからでもすぐにわかった(4)」ので「生徒が街を歩くさい1907では肩身の狭い思いをするから」との話も残っております(5)。
この時期の校章の写真から校章のフォルムは既にメリケン形から現在のフォルムに近いものになっております。
・校章の消滅、王冠の切り取りと校章の供出
戦争が激しくなり、昭和18年(1943)の「金属類回収令」の一・二カ月前に正面に飾られたブロンズ製の「紋章のような校章」の上部にある王冠が問題になり切り取るということが起こりました。その後、王冠のない校章も講堂のシャンデリアなどと一緒に供出されてしまい、校章の土台だけが残った正面玄関となりそのまま終戦を迎えました(6)。
梶広幸 記(1969年・D卒)
(1)「築地万年橋」P44「大震災当時の工芸」(1982・発行 築地工芸会八十周年記念誌編集委員会)P45
(2)(3)「工芸学校・夜間制度80年の歴史」P94 / 同 P88
(4)(5)「創立60周年記念誌」-創立60周年を語る座談会P60 / 同 P68
(6)「工芸学校・夜間制度80年の歴史」P95