「空間が眼差している、かたちをつくる」〜村山翰(2016 年・I卒)-2
――素材の表現性と“精神”について -後編――
【前編】からのつづき
個展で展示した作品についても、少し説明をしたいと思います。この展示に向け制作した作品には、紙以外の立体物にも印刷可能なUV印刷を多用しました。鏡やガラス、革、土などに印刷し、素材固有の特性を作品に組み込む試みです。一番大掛かりな作品では、3枚の鏡を並置して幅約2.2m×高さ1.4mの印刷作品にするものでした。鏡自体も、背面の塗膜(鏡面にするための塗膜とその保護膜)を削り、反対側が透けて見えるかのような加工を施しています。他にも、土とセメントを混ぜ固めた立方体の上面に印刷した作品も制作しました。
素材の特性や質感が、⼼理形態や⼈間関係を含む⼈⽣の断⽚を再現しているかのように⾒えることがあります。⼟は⼟、鏡は鏡でありながら、私たちはそこに⾝体的感覚や記憶を重ね、共鳴するように何らかのビジョンを眼差そうとします。芸術作品を作るにしても見るにしても、想像⼒が要求されるのは、⼈間⼀⼈⼀⼈がそれぞれの「⼈たる世界」を構築する過程にそれが⾃然と機能しているからではないでしょうか。私はその作⽤を重要な要素として扱っています。例えば、たくさんの微⽣物を含む⼟の上に印刷された像が、次第に植物に覆われていったり、カビや菌類に覆われていくならばどうでしょう。印刷によって⼀時的にインクの膜が⼟を覆いますが、次第にその像の中に⽣命が繁栄していきます。もしくは、⼩⽯を集めて平らにならべ、その上に印刷を施したらどうなるでしょう。⽯が固定されていないとするならば、印刷された像は常に崩壊の危機にさらされます。ただ⼟よりも脆くはないので、バラバラになっても元通りの位置に並べれば、像を復活させることが可能です。鏡に印刷をすれば、像の中に鑑賞者⾃⾝が映り込み、像を鑑賞者に対し印刷することができます。
もし、⽬の前の作品に何かを⾒出すなら、どこにそのビジョンが結ばれるのでしょうか。脳が作り出していることに違いはないと思いますが、私は各⼈固有の内的空間に⽴ち現れると思っています。そこには記憶や体験が蓄積、反映され、時間は⾏き来し、多次元的な性質を帯びています。私は初め、⾃分のためだけに作品制作を⾏っていましたが、多くの⽅に⾒ていただく機会が増えた今、作品を通して試みることがあるとすれば、それは個⼈の内的空間の特性を尊重しつつ、その⼈にとって新鮮なビジョンが⽴ち現れるようにすることです。
芸術の創作を「精神」という⾔葉で語ると抽象的な内容に傾きがちですが、芸術もものづくりであることに他なりません。物質を変形・変質させ、存在する意義あるものに変えてゆく⾏為であり、その過程で私たちは⾃⾝が保有する思考や嗜好、志向をその「もの」に分け与えていくのだと思います。それは、加⼯する者と加⼯される物の間を、「加⼯する」という⾏為によって媒介されます。⾝体も物質も⼩さな粒⼦の集まりであり、輪郭は揺れ動きながら連続的に変形しています。“精神”からすれば、⼈も物も粒であり、 ⼤差はないのだと私は考えています。そして“精神”は空気の塊のように、曖昧ながらもある程度のまとまりをもって多様に存在し、粒⼦の集まり達がどのように振る舞うべきかを教⽰もしくは⽀援するためにそれらを包んでいるのではないかと思っています。記憶は各⼈固有のものですが、精神は、あらゆる場に浮かんで漂っているので、誰でもそれに触れることができますし、誰をも包むことができるのだと思っています。









