若き才能の軌跡・桐井準助
桐井準助は、1934年3月に東京府立工芸学校製版印刷科を卒業しました。学業成績が優秀で、特待生としてまた級長というリーダーシップの役割を担うなど同級生の中でも特に優れた存在で、技術者としての道を歩み始める予定でした。
卒業後、当時の大手企業・東洋製罐株式会社(現在上場企業)に入社し、大阪で新たな人生をスタートさせて10か月ほどで、満州への出征を命じられることになります。
左:※特待生昭和7年 右:※成績通知表
家族への手紙
昭和9年3月卒業の頃から昭和10年の出征、最後は昭和10年11月25日までの手紙が残されていました。

※家族への手紙
内容は家族をいつも気遣い、戦地での過酷な寒さ(零下20度)やケが、現地の危険な様子などでしたが心配をかけないよう言葉を選んだものでした。軍事機密保持のためか所々欠字になっています。
昭和11年2月1日戦死 合掌
満州事変と北満派遣
当時、関東軍参謀が本国の指示を無視して「満州事変」を引き起こした背景には、軍部の独走がありました。満州事変勃発後、関東軍は南満州を占領したものの、北部の吉林省や黒竜江省(チチハル、ハルビン周辺)への拡大を企図しました。
1931年10月頃、中央の日本政府・参謀本部が北進を禁じたにもかかわらず、関東軍は独自に「北満派遣部隊」を派遣し、11月にチチハル占領を果たしました。これにより満州全域の軍事支配を確立しました。
1934年12月1日、満州への出征を命じられた桐井は、北満派遣歩兵第68連隊第十甲隊に所属し、チチハルなど北部の危険地域へ派遣されました。
左:※軍事手帳とメモ帳 右:※遺品
つまり、現地で非常に危険な地域に派遣された北満派遣部隊に桐井は所属したのです。関東軍が国の指示に従っていれば、危険な地域へ行かなくても済んだかもしれません。しかし、軍部の独走により、多くの若者が命を落とす事態となりました。
昭和11年(1936年)2月1日、匪賊との交戦中に名誉の戦死を遂げた桐井の死は、町葬儀が行われ新聞にも写真付きで取り上げられるなど、地元社会に大きな衝撃を与えました。わずか21歳という若さで、技術者としての将来を夢見る時間もなく、戦争の犠牲となった彼の人生は、時の時代背景と軍部の暴走がもたらした悲劇を象徴しています。
※戦死後
*この記事は桐井準助さん(P1934卒)のお兄様のお孫さん(再従兄弟)、中島美奈子さんからの寄稿です。









