連載-16 もっと知りたい都立工芸の歩み
喜びの波騒ぐ吉浜寮「我らの寮はここに在り」
吉浜寮、平屋の建坪は約160坪
吉浜寮の楽しき日々
本科の校友会に水泳部が設立されたのは1932年(昭和7)のことで、千葉県竹岡村の安田保善商業学校の寮を借りて10日間の臨時合宿を行い、先生・生徒約120名が参加した。これは3年間連続して開催された。
自前の寮が建設されたのは1935年であった。教練の玉田千代一先生の友人、青木豊吉氏が漁業権を先祖代々持っていた神奈川県湯河原町の吉浜海岸の一部が無償で海水浴場として借りられ、寮の土地は近藤校長の名義で、建設費用は育英会を作り資金を集めた。
完成した吉浜寮は東海道線で真鶴駅を出て最後のトンネルを抜けると車窓左側の田園の中に望見できた。同年7月より水泳講習会の名で臨海合宿を開催。翌年からは2回に分け、1期は1年生全員、2期は2年生以上の希望者という方式になった。
臨海合宿はだいたい1週間で、午前・午後の2回、級を定めて水泳訓練があり、進級試験や遠泳も行われた。遠泳は1年生は沖合いで船、筏の周りを1km、2年生は沖へ向かって往復4kmであった。
合宿生活は先生との茶話会、湯河原温泉への散策、肝試し会などもあり、生徒には実に楽しい日々で海岸では寮歌や詩吟が歌われた。
この吉浜寮での臨海合宿は1943年(昭和18)まで続いたが、最後の年は小田原までしか電車が行かず、生徒たちはそこから吉浜まで行軍した。
校章を染めた旗がひるがえる吉浜海岸で水泳講習会
吉浜寮の撤去
1976年(昭和51)に長い間使われ親しまれてきた吉浜寮が撤去された。戦後の吉浜寮は主にクラブ合宿、クラス合宿に利用され、卒業生も利用できたが、寮の使用料のみでは寮の管理運営が困難となり、外部団体の利用を認めるようになった。昭和40年代になると、寮の老朽化が目立ち始め、また海岸の状況がきわめて悪くなり、危険もあり、利用は極端に減った。
1969年(昭和44)に湯河原町の都市計画事業により、吉浜寮角地に道路が新設拡張され、換地面積は1,220㎡となった。寮の移築は不可能なため1976年(昭和51)4月に撤去され、換地部にはテニスコートがつくられ町教育委員会に貸し出された。
換地された吉浜寮の土地は1999年(平成11年)に売却され工芸基金の原資となった。
※このコラムは「都立工芸100年の歩み」から文章を引用して再構成しています。