連載-17 もっと知りたい都立工芸の歩み

準備される戦争への道

江戸川河川敷で食糧増産の耕地づくり

授業内容の変更

1937年(昭和12)には国民精神総動員実施要綱が決定され、文部省はそのために授業内容を変更する。本校でも修身に新たに4年から「公民心得」が加わり(第ニ本科では1年から)、体操・教練は倍増し各学年4単位(第ニ本科では3単位)となった。このため、普通科目の時間数が増え、実習の時間は減った。

工業学校化で科名から「工芸」が消えた

1943年(昭和18)の「実業学校令」により、科名は変わる。金属工芸科は金属工業科、精密機械科は機械科、木材工芸科は、木材工業科、製版印刷科は印刷工業科とそれぞれ変わり、授業内容は軍需産業の需要に応ずるものになる。工芸学校の科名から工芸が消え、装身具も家具も学校案内から消えた。「大東亜戦完遂、大東亜建設の御役に副はんとする」機械科は募集人員を倍増させた。学校は時局に抗うことはできなかった。だが、当時工業学校が軍需産業の養成に応えていたとき、工芸学校は風当たりを耐え、戦時下にも「工芸学校」であり続けようとした。先生方のその胸中の苦労はまさに言葉にならないものだったに違いない。

食糧増産でジャガイモつくり

太平洋戦争初期の勝利の連続に興奮する日々はすぐに終わり、物資の不足、中でも食糧不足は深刻だった。学校でも食糧増産のために江戸川河川敷を割り当てられ、そこを耕してジャガイモを植えた。



奥多摩御岳への遠足(昭和15年、第ニ本科A科2年生)

遠足は行軍へ

修学旅行・遠足・見学などもよく行われた。1、2年生は日帰り、3年生からは宿泊旅行であった。修学旅行は校友会の研究部主催で各学年からの報告会が毎年1日をあてて開かれた。生徒にとって楽しみだった宿泊旅行は太平洋戦争が始まると文部省から制限され停止された。遠足も同様で、武装して池袋の立教大学前に集合し、埼玉県の平林寺まで行軍することに取って代わられた。

体育会から鍛錬部大会へ

1938年(昭和13)からは運動会の名前は消え、体育会の名で戦時色の強いものとなっていく。金刀比羅神社の祭典とあわせ、皇軍兵士の武運長久を祈願してからの開幕となる。各科対抗はなくなり、応援の熱気は消えた。太平洋戦争が始まり、校友会が報国団に代わると体育会は鍛錬部大会となり、教練査閲を伴ったものに変質した。

※このコラムは「都立工芸100年の歩み」から文章を引用して再構成しています。