連載-6 もっと知りたい都立工芸の歩み

アメリカの工業教育に示唆を得て工芸学校の礎を築いた今景彦初代校長


・写真左 今景彦初代校長 ・写真右 創立当時の築地校舎

アメリカの職業教育を視察

今景彦は東京高等工業学校(現東京工業大学)出身、岩手県立実業学校(現県立盛岡工業高校)創立校長の後、東京府立職工学校を立ち上げ、建築部と機械部を編成し、同時に附属工業補習夜学校を設置し、また適材教育部という工場現場の職工再教育も行ってきた。
1906年工芸学校長に就任してまもなく、東京府よりアメリカの工業およびその教育視察をするよう命じられ渡航した。この渡航は、工芸学校の教育をするための大きな示唆を数多く得ることになった。
世界で最初の学校内工場を設けたウースター工業学校の実践中心の教育と、それとは対照的に整然としたカリキュラムのマサチューセッツ工業学校の教育を見比べて、どちらにも共通しているのは何よりも技術において負けない実行力と自信が学校に活気をもたらしていることだと喝破する。
日本人も勤勉で腕自慢で勇み肌であるが、その応用においてはアメリカに学ばなければならない、その上でもっとも肝心なことは「自求心」であるというのが視察報告の締めくくりのことばであった。
わずか4年で府立工芸を後にしたが、今校長により工芸教育の礎が築かれ、そのスピリットは現在の都立工芸高等学校へと至る道を示し続けるものであった。


・写真 今景彦 著 『工芸教育』 金港堂 明治37年

新時代の職工養成をめざした「学理実習」兼備のカリキュラム

本科のカリキュラムは各分科共通科目が、修身、国語、英語、数学、物理、化学、図画、体操であった。実習は1、2年が週全体の約半分、3年になると半分を超え、さらに4年は多くなったが、これでも他の工業学校より少なく、その分学科に力を入れていた。「学理実習」両面を兼ね備えた教育という方針の表れであった。
今校長は新しい学校の教育方針を実行するべくカリキュラムを組み、教師陣をそろえたが、生徒には「ヤングゼントルマンたれ」という理念を掲げ、プライドを持って理想に邁進させる校風をつくろうとした。
第2代校長として石黒友吉が秋田県立秋田工業学校より就任した。剛毅闊達の今校長とは対照的に温厚寡黙の人柄であり、ヤングゼントルマンたれの教えを自ら範となって実践した。初代今校長がまいた「自治」という種に石黒校長は「自由」という水を注いで、工芸学校に芸術的でのびのびした空気を醸成した。また、退職前には印刷科の新設に尽力された。


*このコラムは「都立工芸100年の歩み」から画像と文章を引用し再構成しています。