同窓生インタビュー-6 From The Glass 透明の輝きに魅せられて・前半

今、私たちの身の回りにはコップや窓ガラスなど、様々なガラス製品があります。ガラスは今や文化的な日常生活に欠かせない素材ですが、遙か昔、紀元前にシルクロードを通り、大陸から日本にもたらされた当時のガラスはとても貴重な宝物でした。
今回は工芸高校卒業後、長年ガラス業界に携わり、現在も業界団体の理事を務めている齊藤直正さんに、ガラスや中国文化の魅力、国際交流に参加した経験や工芸在学当時の思い出などを伺いました。

語り手:
齊藤直正(1980年・D卒)40年間ガラス会社に勤務。現在は会社役員/日本ガラス工芸学会理事
聞き手:
杉原由美子(1992年・D卒)アニメーション監督、脚本家、歌舞伎解説者

工芸高校の公開講座で学んだ中国語会話

杉原:齊藤さんとは何年も前から「おとなの工芸祭」でご一緒させていただいておりますので、普段どおり「先輩」と呼ばせていただきます。先輩がガラス業界に携わっていて、中国ともビジネスを行ってきたということを聞いて、以前からいろいろお話をうかがいたいと思っていました。私も、中国の歴史や文化に興味を持っていて、ここ数年は中国語を勉強しているのですが、なかなか話せるようになりません。先輩はどうやって中国語を勉強したのですか?

齊藤:1993年の2月ごろ、ある朝、都が発行している『広報東京都』を読んでいたところ、工芸高校で一般向けの中国語入門の講座がある、という記事をみつけました。

杉原:工芸高校で中国語ですか? とても意外なのですが。

齊藤:当時、工芸高校の定時制社会科の海田(かいだ)先生が、「近い将来中国語が必要な世の中になる」と考えて、募集を行ったのだと記憶しています。講習の内容は、初級の中国語会話で、毎週金曜日の夜、18時位から20時半位まで2時限の充実した授業でした。当時20歳代から50歳代の方々が20数名いたと思います。担任の先生は、中国の方もいれば日本の大学の先生まで幅広い方々でした。中国語会話の1単位を取得するのに2年間の通学が必要で、私は通算で、6年間通学しました。

杉原:6年間も! 

1994年2月工芸高校にて授業後に撮影。右下が佐藤直正さん。

都立学校公開講座

都立高校は生涯学習の場として広く一般に公開されています。この事業では2023年度、都立工芸高校では「伝統文化 ねぶた造形の制作」が行われました。
どの高校で、どのような講座がおこなわれているか、東京都生涯学習情報のホームページで知ることができます。
東京都生涯学習情報 都立学校公開講座

 

まさに平成の「遣唐使」船で憧れの中国へ!

齊藤:その講座に通っている時、学友達と先生と共に卒業旅行で西安・敦煌・西寧・蘭州を訪れました。青海省の西寧から西蔵(チベット)まで、世界一高い場所へ向かう街道では、日焼けした修行僧や信仰者が五体投地(仏教徒が行う最高の敬礼法で、両ひざ、両ひじ、頭を地につける)をしながら歩んでいる姿もみました。中国何千年もの歴史の中で、昔もこれからも永遠に変わらない景色です。
   

青蔵街道から望む菜の花の絨毯

杉原:もともと中国には興味があったのですか?

齊藤:小学5年生だった1972年、日本と中国の間で「日中国交正常化」が実現し、友好ムードが高まりました。テレビや雑誌などで、人民服を着た中国の人たちの姿やオリンピックでの中国人選手達の活躍などを見て、興味を持たずにはいられませんでした。自分のお小遣いで初めて買った本は中国語会話の本。26才の時に初めて訪中して、いつか中国語を学習したいと思いました。

杉原:工芸高校の講座で中国語を勉強するよりも前、社会人になって7年目(1987年)に、はじめて中国に行かれたんですね。旅行ですか? それとも出張?

齊藤:「日中友好青年の船」に乗船し、晴海埠頭から天津港、汽車に乗換えて北京を目指しました。

杉原:国際交流事業に参加されたんですね。しかも船の旅。私も以前、国際交流の仕事に携わっていたことがあります。国境を越えて、いろんな国の人たちと交流するのはかけがえのない経験になりますよね。

齊藤:でも、このセミナーを知ってから、参加するまでに2年もかかってしまいました。

杉原:というと? プログラムに参加を申し込むための、ハードルは高かったのでしょうか。

齊藤:会社の上司や人事部に申し入れましたが、「希望を叶えるためには実績を上げろ」ということになり、それをクリアする為、上司の言った事をメモに取り、必死に業務に取り組んだ日々が懐かしいです。2年後、上司に実績報告をし、再度嘆願した時は「却下したら辞めさせていただきます」と啖呵を切った事は若気の至りと反省しています。

杉原:切腹覚悟の申し入れだったんですね(笑)。

齊藤:洋上セミナーに参加して中国を訪れたことは、人生最大のターニングポイントだったと言っても過言ではありません。その後、この洋上セミナーには、1992年にも参加し、千葉港から上海港、汽車に乗換え杭州までの旅となりました。


写真左:天津港にて子ども達による歓迎の踊り
写真右上:1987年10月15日天津港着港直前、船上にて
写真右下:洋上セミナー15組団員。齊藤さんは上の列の左から三番目

様々な海外研修の機会

当時齊藤さんが参加した「東京都勤労青年洋上セミナー」は1994年に終了しましたが、内閣府による「青年交流事業」は2024年現在も行われています。
内閣府ホームぺージ 青年国際交流

芸術分野では「新進芸術家海外研修制度」があり、一般的な留学の他にも海外で学び、経験を積むチャンスがあります。
文化庁ホームページ 新進芸術家の海外研修

興味のある国や文化がある方は挑戦してみてはいかがでしょうか。


「君は就職できない」と宣言された就活の思い出

齊藤:その後、1994年頃にガラス会社が中国進出を決めて、30代の半ば頃に上海に工場ができました。そのプロジェクトメンバーに選ばれたことが転機となりました。この事はとても嬉しく「渡りに船」とはこの事かと実感しました。40年間辞めずに勤務することができたのはそんな巡り合わせがあったからです。実は就職を決める時、担任の児玉先生から、日頃の生活態度を理由に「どこにも就職は出来ないだろう」と言われていました。

杉原:児玉先生からそんなに厳しいお言葉が……。

齊藤:工芸高校時代は劣等生で「たしかに俺は就職しても多分3カ月位しか続かないと思う。それでも、親の為に就職を決めて卒業式を迎えたい」と児玉先生に頼み込み、紹介してもらって就職したのがガラスの会社でした。振り返ってみれば、運命を左右となる就職になりました。


次回はご本人曰わく劣等生だった、という在校当時の思い出やガラスの魅力などについてお話を伺います、続きをお楽しみに。