連載-9 もっと知りたい都立工芸の歩み
1923年(大正12)9月1日 関東大震災が発生。築地校舎は倒壊をまぬがれたが、夜半には銀座築地方面に火の手が回り、校舎も全焼。レンガの壁だけが残った。
学校存亡の危機
校舎の復興には、生徒の焼跡整理による整地が進んだことが大きく、1924年(大正13)5月には府立学校でトップを切って仮校舎ができ、7月には増築工事も完了した。帝都復興案は財政難からすべては実現されなかったが、これまでにない防災都市の建設により築地の晴海通りも拡幅となり、工芸学校の北側の敷地は削られることとなった。
震災で多くの学校が罹災し、東京府には工芸学校と実科工業(現墨田工業高校)とを合併させてはどうかという案があった。これは実質のところ工芸学校がなくなるかどうかの大危機である。しかし近藤校長の陣頭指揮の下、一丸となって学校はがんばり、焼跡で実習も卒業式も挙行した。換え地の問題も、学校は密かに候補地を自ら探し水道橋の松平邸跡に着眼した。震災3ヶ月後の12月の府議会では、この学校の案が了承され、合併案はうわさとなって消えた。
1925年(大正14)8月末、水道橋に仮校舎の一部ができ、築地からの移転が始まる。1907年(明治40)以来の築地時代はここに終わりを告げた。
築地から水道橋仮校舎へ
築地からの移転先となったのは水道橋の旧讃岐藩・松平頼寿氏の邸跡であった(建物は焼失していた)。震災復興の区画整理が始まり、築地を引き払って水道橋で再び仮校舎を建て、そこで授業をしながら新校舎の建築を進める段取りとなった。建物は東京府が、備品は学校が移転させることとなった。水道橋に2階建て仮校舎と平屋の実習工場が完成すると、ただちに備品から移転が行われた。当時、水道橋駅を出て市電の交差点に立ち、坂道を登ってゆく御茶ノ水方面を見上げると順天堂病院まで見通せた。
次回の連載-10は「水道橋新校舎が完成」
※このコラムは「都立工芸100年の歩み」から文章を引用して再構成しています。